2019年12月26日木曜日

400メートルのトラック

昨日の夜、録画された番組を見ていたら、荷台のやたらと長いトレーラートラックが写っていました。正確ではありませんが、見たところ4、50メートルはありそうでした。それが、見事に交差点を右折していく。感心していたら、ふと思い出しました。昔、塾で教えていた時のことを書いたエッセイです。以下に、それを再録します。
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 私はある塾で講師をしている。対象は小学六年生。まだ幼稚さが残っている彼らは、大人には考えも及ばないことを言う。

 ある時、こんなことがあった。

 それは、塾のテストの日。私は算数の監督にあたっていた。幾分生徒達も緊張気味だ。問題を配る。
「問題文をよく読んでから解いていくんだぞ。分からないところがあったら手を挙げて質問すること。」
 ありきたりの注意を与えて、テストが始まる。あたりには鉛筆で紙をこすることが充満する。時々「しまった。」という声も聞こえる。

「先生。しつもん。」
 急に大きな声が聞こえて、私は振り向いた。中程の席に座っていた一人の男子生徒が手を挙げている。
「どうしたんだ。」
 私はそばに行って声をかける。答案用紙を見ると、あるところから先へまったく進んでいない。
「先生。これどういう意味ですか。」
「どれどれ、問題を見せてごらん。」

 問題文にはこう書いてあった。
「一周四〇〇メートルのトラックを一分間に五〇メートルの早さで走るとすると、何分かかりますか。」
 いったい何が分からないのだろう。私は首を傾げた。

 すると、彼はこう言った。
「先生。四〇〇メートルのトラックって、ほんとうにあるんですか。」
 えっ、なんだって。私は一瞬耳を疑った。トラックを知らないなんて考えられない。続けて彼は言った。
「四〇〇メートルもあるトラックが、どうして道を走れるんですか。信号はどうして曲がるんですか。」
 なにーっ! こいつは自動車のトラックのことを言っているのか。冗談じゃないぜ、そんなトラックがあるものか。
「おまえ、トラックって、自動車のことだと思っているのか?」
「えっ、違うんですか。」
 やはり、彼は「四〇〇メートルのトラック」を自動車のトラックと勘違いしていたのだ。それで、真剣に悩んでいたわけだ。
トラックの意味を教えると、彼はほっとした顔で、「よかったあ。」

 今日も、テストが続いている。鉛筆の音が響く。彼はどうしているだろう。算数のテストを見るたびに思い出す「四〇〇メートルのトラック」。

★作者からの一言★
 これは、足立純の筆名で発表した作品である。『超心暖まる話』という単行書に収録された。

2019年12月25日水曜日

字数制限は撤廃!

このブログを始めるときに、1回の字数を800字と決めて、タイトルにもそう記しました。ところが、実際に書いてみると、800字を書くのは簡単ではありません。ツイッターもしている(アクティヴではありませんが)ので、少ない字数で書くのに慣れてしまっているのでしょうか?

いやいや、年を取って頭の回転がにぶくなっているのかも。今の私では400字がいいところ。そう言えば、塾で教えていたころ、「400字で書きなさい」とよく言っていたように思いますね。実際に書いてみても、400字というのは書きやすい。

ある程度はっきりしたテーマがあって、それについて論述するのなら、800字は必要でしょう。ではなくて、日ごろ感じたことなどを書くのであれば、そこまでいらないだろうと思ったのです。というより、字数制限のように、いろいろ決められるのが嫌なのですな。嗚呼!


2019年12月19日木曜日

共観福音書問題・1

PCに保存されたファイルを整理していると、神学校の終了論文が見つかりました。私は西南学院大学神学部の出身なのですが、当時は大学院がなく、学部卒業後は専攻科に進むのが一般的でした。その終了論文を分かりやすく書き直し、このブログで公開することにしました。ただ、論証の専門的なところは省き、一般的な部分だけですので、悪しからず。しばらくは、「共観福音書問題」を取り上げます。

[共観福音書問題とは]
私たちの前にある最初の三つの福音書―マルコによる福音書(以下マルコと表記)・マタイによる福音書(以下マタイと表記)・ルカによる福音書(以下ルカと表記)―は、共観福音書と呼ばれています。現在最も多く流布している『聖書 新共同訳』で記事の並行箇所を見ると、この三つの福音書が非常によく似たものだということに気づきますね。たとえば、マルコの記事で他のいずれとも重複していない独自の記事はわずか4箇所しかありません。しかし、詳しく読んでみると、次のような相違点が浮かび上がってきます。

(1) それぞれの記事の配列が異なっている。たとえば、『聖書 新共同訳』で「ナザレで受け入れられない」というタイトルがついた記事(マルコ6,1ff、マタイ13,53ff、ルカ4,16ff)は、マルコでは12弟子を派遣する記事の直前に置かれているが、マタイでは派遣後さまざまな譬話をされた後に置かれ、ルカでは公生涯の最初の部分に置かれている。
(2) 並行記事であっても、言葉遣いに大きな違いがある。イエスの最期の言葉は、マルコでは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」、マタイでは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」、ルカは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」 である。
(3) 記事に用いられた資料の選択が異なっている。マルコにないイエスの誕生記事、幼少物語、復活顕現物語はマタイとルカにはあるものの、両者は内容的に大きく異なっている。
(4) 内容的にはマルコがイエスの行動を中心に描かれているのに対し、マタイとルカではイエスの言葉集が大きな位置を占めている。しかも、それらの多くは両者に共通している。

なぜ、マルコ、マタイ、ルカの3福音書がこれだけよく似ているのか、また、それにもかかわらず数多くの相違点があるのか、これは「共観福音書問題」と呼ばれています。この問題を解決するためには、それぞれの資料的関係の解明がなされなければならず、そのために古来いろいろな説明がなされてきました。次回から、それらを概観していくことにしましょう。

2019年12月15日日曜日

このブログについて

何かの本で、文章を書く訓練には短文から始めるのがいいと書いてあったのを思い出しました。そう言えば、清水幾太郎に『論文の書き方』(岩波新書)という本がありましたね。彼は学生時代に1000字の書評から文筆稼業に入ったそうです。

う~む、私はもう72歳。書きたいことは山ほどあれど、頭と体がついていくかどうか。1000字はけっこう骨ですよ。じゃあ、何字から?

書棚をひっくり返すこと1時間(そんなにかかるほど本はないのにね)、ありました、『800字を書く力』(鈴木信一・祥伝社新書)です。著者によれば、書評や新聞のコラムなどの平均が大体800字なのだそうです。ですから、まあこのくらいから始めたらいいかと。私も安直ですね。

じゃあ、ここまでで何文字くらいだと思いますか?まだ300字ほどなんですね。800字と言えば、この2倍以上。本当に継続できるんだろうか。ちょっと心配になってきました。

でも、やると決めたからにはやらねばならぬ。しようと思ったことをせずにいると、やって失敗した時よりもダメージが大きいという研究結果があるそうです。確かに、もやもやは残りますよね。だからこそ、頭と体の続く限り書いていこうと思います。

私は、様々な病気を抱えた身体障碍者です。手足は若干不自由ですが、頭は何とか動いている。あと10年生きれればいい方なので、これまでに書いてきた文章を集めたブログを2つ作りました。しかし、それだけでは物足りない。そう思ってこのブログを始めました。

タイトルの「日乗」は日記のこと。永井荷風の『断腸亭日乗』が有名です。実を言えば、これをパクって『漫々亭日乗』と名付けたのです。もう一つ、サブタイトルの「瘋癲老人」は、谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』からいただきました。

瘋癲の名に恥じず、あっちブラブラ、こっちブラブラ、好きなことを思いついた時に書きていきます。乞う、御期待。