2020年8月6日木曜日

広島・原爆の日に思う

今日8月6日は、広島に原爆が落とされた日です。この時期になると、「故郷の街焼かれ・・・」という歌と、「原爆忌祈りのさなか赤子泣く」という句をいつも思い出します。10年以上前に書いた文章があるので、再録いたします。HP「高山裕行アーカイヴ」の「コラムぶどうの樹」にも載せています。
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「原爆忌祈りのさなか赤子泣く」
 ずいぶん前、こんな俳句が入試に出たことがあります。誰の作品かは忘れてしまいました(;_;) けれど、大変印象深いものだったことはたしかです。
 広島でも長崎でも、原爆が投下された日を記念してさまざまな集会が催されます。今年の広島での原水爆禁止世界大会には、国連事務総長を初めアメリカ政府関係者も参加したということです。その様子を見ていると、この作品の背景は長崎なのかなという気がします。
 祈りの長崎と言われるように、長崎原爆の日は平和の祈りで満ちているそうです。カトリック教会では平和のミサがあげられ、プロテスタントの教会でも平和を祈る礼拝が捧げられます。今年は長崎バプテスト教会が会場になっているということです。
 長崎平和公園に行くと、指を天に向けた大きな人物像(?)が目に留まります。わたしは、なぜかこの像が好きではありません。平和を祈る姿を現しているそうですが、その姿に何か猛々しいものを感じるのはわたしだけでしょうか。それよりも、廃墟と化した教会堂から掘り出された「被爆のマリア」像のほうがはるかに印象的でした。
 「被爆のマリア」が安置されている浦上天主堂。その真上で人類史上2発目の原子爆弾が炸裂したのです。一瞬にして何万人もの人々が息絶え、さらに何万人もの人々が怪我をしました。数千度といわれる熱線に皮膚を焼かれ、ぼろぎれのように皮膚を垂らせながら水を求めてさまよう人々の群れ。長崎大学医学部の医師でクリスチャンの永井隆博士は、その時の様子を克明に記録しています。
 生き残った人々も決して無事ではありませんでした。強い放射能がその体を蝕み、無数の人々が急性原爆症で亡くなったそうです。1週間も経たないうちに髪の毛は抜け落ち、鼻や口から血を流して死んでいく。どうすることも出来ず、彼らを見送るしかなかった人たちの無念さは、今のわたしたちには想像することすら出来ないでしょう。
 原爆症の急性期を乗り越えて生き残った人々の一人に、わたしの義母がいました。彼女は、わたしが結婚する数年前、癌で天に召されました。彼女と共に被爆した親戚は皆、癌で亡くなりました。原爆の強烈な放射能が、彼らの遺伝子を変化させ、癌を発病したのではないか。わたしにはそう思えてなりません。
 その突然変異した遺伝子は、子孫に伝わり、彼らの体内で癌を発症させる。わたしの妻は、義母よりさらに10歳若い47歳で天に召されました。最後は卵巣癌でした。その遺伝子はわたしの娘にも引き継がれています。
 何世代にも渡って苦しみを強いる原爆。原爆の廃棄と恒久の平和を願って、わたしたちは祈るのです。静かに祈りを捧げるひと時、原爆投下の時刻を告げる鐘の音が響くと、人々の祈りは最高潮に達します。声にならない声、静かな祈り。その静寂を破って響く赤ちゃんの泣き声。でも、誰も振り向こうとはしない。その元気な泣き声が、原爆のない未来を象徴していることを皆知っているから。泣き声と祈りの声が渾然一体となってわたしたちの耳に届いて来ます。

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